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August 02, 2005

道徳の時間の有用性?

 中国 広州で暮らしております。少しばかり仕事に関係したお話を書いて見たいと思います。ノウハウにあたる点は書くことできませんが、最近気がついたことについて書いて見たいと思います。下記の経験からひょっとして私たちが小学校の授業で道徳の時間というものがありましたが以外にこれが我々技術屋にとって現在糧になっているのではないかと最近感じます。
 私の場合、技術レポートの作成を中国人技術者にお願いしたり、添削をする機会があります。おそらく私と同業の方々はこの技術レポートの作成で相当苦労しているのではないかと思われます。私も口から泡が出るくらい冷や汗の体験をしております。例えば明日までに顧客に提出しなければというのに内容なめちゃくちゃなレポートがアガッてきまして、添削の施しようもない状態に追い詰められたりというような場合です。
 技術レポートの定石といえば、課題提起→推定→実証→データの推定→考察→結論というのが一般的な書き方です。ところがです。まだ学校卒業したての中国人技術者のレポートは我々の想像からかけ離れた構成で書いてきます。
 一例をいいますと、、、、 我々は一致団結してこの課題を解決した。。。(推論方法が)AだからAで間違いない。。。A以外には考えられない。。。これは我々の勤勉な努力によって完成した。それからいきなり結論が書いてあるものや、または、たゆまない努力によって測定した。結果はこうである。(またはその後の結論がない。)。。。。
 こんな内容のレポートが私のもとに送られてきます。私は初めて見たときにレポートの冒頭に一致団結という文字を見つけた場合は、文字通り噴飯ものでしたが、、??なぜこんな言葉を書くのだろう?と不思議に思ったものです。
 我々が学生時代に習った内容はどうかと思い出すのですが、はっきりとレポートの書き方というなるものを習った記憶がありません。しかし期日に追われてシコシコと書いた記憶はあります。どう構成するかは自然に身についたように思います。
 彼ら新人の中国人技術者に聞いてみますと同様です。学生時代は定期的にレポートの提出があったそうです。
 この差はなんだんだろう??とづっと考えていまして、最近ふと気がついたのは、我々が小学校の時に受けている道徳の時間の授業構成ではないかということに注目しました。
 道徳の時間の内容は有るテーマが与えられてみんなで討議するような内容でした。私の記憶は授業時間中
答えが導きだされた記憶はなく、みんなで意見を出し合うが、まとまらずそれで授業終了時刻がきて終わりとなったケースしか思い出せません。但し意見を出し合い推定をした記憶はあります。そのころ私はなんてよくわからない内容なんだろう、こんなこと話し合うのであれば授業の終了時刻を切り上げてさっさと遊んだほうが楽しいのにと思ったものです。しかし今考えると、みんなで意見を出し合い、それなりに推定するというアクションが大事であったように思うのです。このような推定→結論いう考え方をこの道徳の時間を通して教わったような気がしてならないのです。
 中国人技術者に決定的に欠けていることはデータの検証、推定がまったくできない人が多いと私は感じます。
これは、私の想像ですが、基本的な中国の学校の教え方に関係しているように思います。なぜならば同じテーマを与えればコピーしたように答えが同じという結果を頻繁に遭遇することから、基本的ななにかの教え方が我々と根本的に違うのではないかと思います。そのなにかは私もよくわかりません。
 ともかくもこの道徳という当時わけのわからなかった授業から、推定→結果ということを学び、今の生活の糧になっていることに気がつきました。ちょっぴり日本の教育に感謝です。

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